S・カンドウ神父小伝

一八九七年五月二十九日、ソーヴール・アントワヌ・カンドウは、南フランス、パスタのサン・ジャン・ピエ・ド・ポールに生れた。父はフェリックス、母はテレーズ、彼は十一人兄弟の七番目の子であった。一七九五年に建てられた、美しい、がっしりした家に、父は布地商を営んでいた。父フェリックスは、敬虔なカトリック信者であり、厳しい人柄であった。そしてテレーズは、献身的な、優しい母であった。一家は、いつもきちんときまった時間に食卓につき、つい近くの教会から響いてくるアンジェラスの鐘を待った。鐘の音とともに父はベレー帽をぬいで、右の肩にのせ、みんながお析りをした。

ソーヴール(Sauveur)は「救い主」の意味であり、幼年時代の彼はとても信心深かった。六才の頃から、彼は木の十字架を紐で胸にぶら下げていた。八才のある日、前かけを破って、この十字架を包んだソーヴールが、あわてて家に走りこんできた。不信心なおとながいたから太切な十字架を護ってきたんだ、息をきらせながら彼は母親に報告した。九才の時、伯母が二つ年上の兄と彼にお小遣いをくれた。兄はほしい物を買おうといったが、ソーヴールは、このお金でルールドヘ行ってみたいと言いはった。この主張は、ついに厳しい父を承諾させ、十一才と九才の兄弟は、二人きりでルールドの聖地を巡礼した。

十一才で、ラレソールの小神学校に入学、十七才でここを了えるまで勤勉な優等生であったが、将来の目標としては技術家を夢みていたこともあった。第一次欧州対戦が始まり、どうせ召集されるなら将校の方がいい――と、友達の勧めるままに、サン・シール士官学校に入った。一九二六年、彼は数ヵ月の教育をうけたのち、陸軍少尉としてヴェルダンの戦線に参加した。そのころ、ヴェルダンの激戦は最高潮にあった。朝、前線に出動した連帯は、タベには、ほとんど全滅し、生き残った将兵は、新しい連隊に加って出動するのだった。カンドウ少尉は、一カ月に四度も違った連隊に編入されて前線に出たが、鉄火の嵐のなかに、彼だけはその都度生還した。
二ヵ月後、彼は中尉になって休暇を得た。真新しい軍服の胸にいくつかの勲章をつけて、彼は北フランスの聖地リジューへ、親戚の病人のため参詣を頼まれてでかけた。ついでにブルターニュに行って、漁村に泊まった朝、船に乗りこむ漁夫の祈りをきいた。小きなベレー帽をとって空を仰ぎながら、漁夫たちは「神よ、われらの舶は小さく、海は果しなく広きものなれば、我らを襲り給え」といい、船は波に乗って行った。この光景はなぜか雷のように、軍服の胸を撲った。
彼はリジューにつき、とあるレストランで昼食をとっていた。その時、黒い髪と黒い目の外人司祭が、コーヒー茶碗をもって彼の席にやってきた。戦争についてのニ、三の会話のあと、司祭は人間の自由意志について語り出した。この中年司祭の言葉は、ふたたび雷のようにカンドウ中尉の魂をうった。人間の価値はその実在の密度と、愛の深さによっで定まる。愛によって生きる人間が一人でも多いほど、この世は天国に近くなるであろう……。司祭は燃えるような口調で語りつぎ「今日の会見が、あなたにとって火の記憶になるように」といって去って行った。

司祭は「神の愛の使徒」どいわれたマテオ・クラウレー師――その「火」は、二十才のソーヴール・カンドウの魂に燃えうつり、そして彼の生涯を決定した。

戦いは終り、一九一九年、彼はバリ外国宣教会に入った,間もなく選ばれて、ローマのグレゴリアン大学に送られ、一九二五年までひとすじの研鑽を積んだ。この間、ヘブライ語、ギリシャ語を修め、神学博士、哲学博士の称号を得た。ニ十八才のカンドウ神父は、濃い髪と厚い胸、鋼のような意志と体躯の持主であった。

日本への探遣がきまったのは、一九二四年の秋あった,木の十字架をぶらさげていた幼年時代、彼の伯父の家に富士山の絵一がかかってた。日本への憧れの種子はこのころに蒔かれ、その芽は年とともに伸びていた。
バスクの生んだ聖プランシスコ・ザビエルの日本における布教史は、その芽を若木に育てる温床であった。パリ外国宜教会はその当時、日本へ俊秀を送ろうとしていた。在日宣教師の多くは中年を過ぎており、布教は活発とはいえなかったからである。カンドウ神父の日本派遣は、かくて必然的でもあった。一九二五年一月、長い船旅を終えて、彼は日本の土をふんだ。
東京の関口教会にしばらく落着いてから、静岡市追手町の教会に赴任、円漢学者村越金蔵について日本語の習得にうちこんだ。四書五経の素読から始めたが、半年で完全に日本語を操った。そのころ東京でアッシジの聖フランシスコ記念講演会があり、カンドウ神父は一時間にわたって講演した。苦心の原稿を丸暗記したものだったが、聴衆は流暢な日本語に度胆を抜かれた。来日七ヵ月目の処女講演であった。一九二六年、東京教区神学校の校長として上京、足かけ三年、寺小屋式な教育に没頭した。専門学校令よる大神学校の創立は、この問カンンドウ神父の胸に芽ばえ、一九二九年、石神井の麦畑のなかに、念願を現実とした。
その後九十時、同校校長室に起居して、日本人神父の育成に傾倒したが、早稲田大学、アテネ・フランセにも講義をもち、講演、出版などに休む日もなく活動した。カトリック教会の世界から、日本の文化界へ――巨木の枝は自然にのびて行った。ともすれば抽象的になり、難解になるカトリシズムを、彼はできるだけ具体的に、平易に説こうとした。生きた人間に生きた話をしようとした。そして、カンドウ神父はそれに成功した。本質的な雄弁家であったうえに、信念と学識に培われた風格は、人を動かし、魅了せずにはおかなかった。古い時代の宣教師たちは、よき代弁者を得、若い司祭たちは、日本におけるカトリック布教の新しい方式を学んだ。カンドウ神父の論理は、いつも足を地につけており、その普遍性が、カトリック教会のそとにまで影響を及ぽしはじめていた。

一九三九年九月、第二次大戦が起って応召、東京駅ホームは見送りの人々に身動きもできなかった。陸軍大尉の彼に、軍ははじめ情報部日本課詰を命じた。月給は数倍、専用車もつけよう、という条件であったが、半生を捧げる日本に対してスパイ的な仕事はできない、と担み、最前観に送られた。一九四O年五月二十四日、アルデンヌの戦線で彼は瀕死の重傷を負った。前線への連絡に車を走らせている時、敵機に爆撃されてたおれ、教授の来ぬまま夜をあかした払暁、霧のなかに敵のタンクが現われ、あっと思う間に乗りかかってきた。身を翻えすいとまもなく、右腰はキャタピラに砕かれ、失神した。数時間後、味方の担架が、血にまみれた彼を死体と認めて行き過ぎようとした時、カンドウ神父は声にならぬ叫びをあげ、担架はひっ返してきた。
タルプの陸軍病院で命をとりとめ、ヴィシイで治療に専念したが、右足は動かなかった。腰骨を入れ換える手術を決意して、彼はスイスの国手ポール・マルタン博士のもとを訪れた。当時欧州の外科医学界の話題となった大手術が成功したあと、ギブスのなかの一年半を、ローザンヌの病院に渦したが、この間、深い冥想の時間と、病床を訪れる一流人士との交友を得て、彼の恩索は充実し、円熟した。右足は元のようにはならなかったが、ステッキだけで歩けるようになり、ヴァチカンの一室で、三年の静養を送った。戦功により、クロワ・ド・ゲール四個をうけていた。
イタリーの敗戦につづいて、日本の敗戦を、カンドウ神父はローマで見た。間もなく在欧日本人はサレルノに集められ、神父は飛んで行った。収容所に通うのも、もどかしく、彼は特殊囚人を志願して日本人たちと起居をともにした。鉄の網だけのベッドに寝起するカンドウ神父に、外交官も、軍人も、競って自分たちの外套を重ねた。

-九四八年九月、カンドウ神父は、甥の若い神父ジャック・カンドウを伴って、日本に帰ってきた。五十一才、長い漆黒の顎髪は、半白となって短くかりこまれ、食事も酒量も半分ぐらいに減っていたが、柔らかな、重厚な風貌は一段と深いものになっていた。東京目黒の狭い日本家屋での生活は決して快適なものではなかったが、カンドウ神父は楽しげにさえ見えた。
よく人にあい、旅行し、講演し、新聞や雑誌にも寄稿した。日本と日本人に対する愛情は、以前よりもっと深く、濃いものになっていた。自宅の四畳半の聖堂で、よく彼は不自由な足を折って長いことひざまづいていた。愛する日本のため、多くの悩める者のためにのみ祈った。私は、自分のために折ったことはない、とカンドウ神父はいっていた。

三年後、文京区高田老松町の古い広い家に移った時、門柱に ERMI`TAGE(隠者の庵の意)という標札がかけられた。が訪問容はふえ、交際面はひろがるばかりであった。パリ・ミッション会の主柱であり、日本人神父のおやじであり、日本カトリック界の代表的人物である一面、一流文化人としての存在が日一日と鮮明になり、生活はいよいよ多忙となった。短い講演にしても、一周一回原稿紙二枚のカラムにしても、その何気ないいいまわしや行文の裏に、骨身を削る推敲があった。思想と話題は、それからそれへと翼をひろげて、これを要約するだけでも容易ではなかった。

こうしたなかに、年ととるに健康はすぐれなかった。アルデンヌの戦傷以来、もって生れた鋼鉄のような意志は、長い訓練によって、異常なまでに鍛えられていた。胃の不調は、大神学校時代からのものだったが、大手術のあとは、不自由な右足がこれに物理的な荷重を与えたもの、と信じていた。直すことより苦痛と戦うことであった。

一九五五年九月二十六日ごろから襲ってきた胃の痛みも、いつものものと考え、入院など耳もかさなかった。ときたま痛みがおさまると、得意の冗談を飛ばしたりした。しかし、二十八日未明、苦痛はついに稀な忍耐力を超え、聖母病院に入った。メスであけられた胃は捻転しており、幽門は針の穴に等しかった。病名は急性十二指腸潰傷であったが、盤痕に二十年の年輪を刻んでいた。同日午後一時、五十八才の生涯は幕をとじた。

十月一目、葬儀は東京四谷の聖イグナチオ教会で行われた。堂からあふれた人々の、白い雨足のなかにひざまづいている姿がみられた。

宮本敏行

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