常識擁護論

モンテーユュのエッセエの中に、こんな文句がある。ある人が一人のラセデモニア人に、あなたのそれほどの健康と長命の秘訣は何であるか、とたずねると、相手は「それは医薬を知らぬことです」と答えた。
これを読むと、皮肉は二十世紀に始まったのではない、というほかに、これは現代にも通用する秘訣に相違ない、という事を考えさせられる。
医学者は健康を定義すのに申し合わせたように、平衡という言葉を使う。この平衡なるものは、言うまでもなく精神的かつ肉体的両分野に意識を持つのであろう。ところで、多くの病の原因は自家中毒にあるそうである。精神の方面でも一種の自家中毒が、多くの害を惹き起こしているように思われる。
いったい、健康状態とは例外的現象であろうか。そうとは思えたい。健康は平常の状態であり、病気は例外的状態であると言わずにいられない。この定義は精神の世界にも芯用されうるであろうか。もちろん、黙りといいたい。
一般人、常人は、人間色しての平衡を保っている者にほかならない。故に一般人にとって、常識というものが、真偽の区別において大きな役割を果すのである。それぞれの専門以外のところでは、この常識以外に標準となるものはないのである。
純理的世界でも哲学者は、開かれた哲学が閉ざされた哲学よりもよいとする。なぜなら、体系的な先入組のとりこであれば、研究者観察は片よったものとなりがちである。もちろん特殊的研究においては、分析的方法が効果をもたらすことは否めない。しかし、アレキシス・カレルの言う如く、人間の実生活に応用されうる知識は、総合的なものである。世界がわれわれに提供するすべての問題は、瓦いに密接に結びついていあ。その連絡を無視して一つの問題を孤立させると、脱線の危険が生じる。そしてそういう孤立した問題に没頭すればするほど、常識はずれのことを平気で言えるようになるようである。

この世に人間と生れて、今の実存と筆者のいわゆる絶望とか不安とか、置き去りの輔を、全然知らぬ者があるとすれば、それはごく低級な人間か、運命に特別扱いされた箱入娘人間か、全くの低能かであろう。それにしても、こうした観念を自己の知的生活の中心とすることには、大部分の人間は反撥を感じるのである。

サルトルの書いた「エクジスタンシアリズムはヒーマ二ズムである」という本の中に、実存主義者の考える人間が定義され得ないのは、即ち、行動に先立って人間は何ものでもないからである――Il n`est d`abord rien――という断言がある。なるほど、この命題をそのまま受けとるなら、とりも直さず「人間は自分のなすところ以外の何ものでもない」ということになるわけである。
今の多Jくの成年のあやまりは、こういう思想が、現代人の乗るべき正常の軌道だときちがえたところから来ている。こういうレールに乗って行けば、どこかで脱輔するにきまっている。しかし出発点で一度しっかり足元を見定めておけば、多くの者は、およそ非人間的な非常調的な逆組めレールに乗りかけずにすむであろう。
サルトルは、伝統的な哲学の種々の原則を批判してのち、ポンジュ氏の断言に共鳴する。曰く、人間そのものが人間の未来である、と。(L`homme est l`avenir de l`homme.)
そして、一つの具体的な例を以て、自分の思想に註釈を加えている。この例を熟考すれば、いわゆる置き去りの観念がはっきりするとのことであるから、ここにその例を紹介してみよう。

――私(というのはサルトル自身のことである)のところに、学生の一人が相談に来た。彼の父母は不和の状態に在り、一人の兄は一九四O年の対ドイツ戦で戦死している。成年は兄の仇を討つベく英国に走ってフランス自由箪に加わりたいのだが、母は今は自分一人を頼りとして生きている。この母親は愛国心に燃えている女で、夫がむしろドイツとの提携を望むのを世裏切的であると考え、長男の戦死にも精神に打撃をうけ、次男に唯一のなぐさめと希望を見出していた。そこでこの青年にとって、二途の一をえらぶことは大きな課題となる。即ち母をすてて英国へ行くか、或いは自分の望をすてて母の傍に留まるか、の二つに一つの選択である。母は自分がいなくなれば、まして戦死でもすれば、絶望のとん底に陥るであろう。ー方自分が母の為になす行為はすべてはっきりした意識をもつ、つまり母を活かす行為であると自覚出来る。それに反して戦争に参加するための行為は、必ずしも有効なものではない。なぜなら、英国に向って出かけても、すでに多くの例にあるように、スペインのどこかのキャンプでいつまでも足踏みしなければならぬかもしれぬし、無事に英国またはアルジェ―に着いたところで、どこかの事務所に閉じこめられるかもしれない。

彼のえらぶベく直面しているのは、ニつの相反する行為である。一つは直接的であり具体的であるが、ただ一人の人間を対象とする薬である。他は更に普遍的な国家的な集団を対象とするが、効果として曖昧な点がある。
適当に選ぶために、助けをどこかに求めることが出来るであろうか。キリスト教主義に頼ろうか。キリスト教は隣人を愛せとか、他人のために犠牲になれとか、より苦しい道をえらベとかいうであろう。だがどの道がより苦しいか。愛すべき隣人は誰なのか。戦場で戦っている者か、自分の母か。身を犠牲にするのは、集団のためか、母のためか。
カント主義の道徳は、他人を手段として扱わず目的として考えよ、という。では、自分は母を手段と見ず目的として、彼女傍に止まろう。が、そうすると、自分の周囲に戦いつつある人間を手段として扱うことになるではないか。或いは戦争に参加すれば、戦闘員等を目的とし、母を手段と考えることになるではないか。
価値というものは、あまりに不明確な漠然とした観念である故に、一つの具体的な場面を前にして選ばねばならぬ時は、本能に委せるよりほかに道はないのではなかろうか。結局価値を定めるのは感情である。勘定が一つの方向に自分を向かしめるなら、それを選ぶべきであろう。母のためには何物をもかえりみぬほど、母を愛する感情が強いから、自分は復讐慾も冒険慾も輔牲にして、母の傍に止まるのだ。之に反して母への愛情が不十分であると感じるなら、自一は行かねばならぬ。
だが、いかなる標準をもって、一つの感情自体の価値を決定することが出来るのか。自分の母に対する感情の優位を定めるのは、自分が留まるというその事実である。たとえば、口先で、この友人を助けるためには千万フランも高まぬというのはたやすいが、実際に千万フラン払ったあとでなければ、真実の意味でそう言えない筈である。自分も口先で母の方を愛していると言えても、実際に傍に留まってからでなければ、そう宣言できないわけだ。この愛情の価値をはかることが出来るのは、それを決定する行為ののちでなければならぬ。ところが自分はこの愛情に、自分の行為を正当化てくれることを期待している。故に、どうしても循環論法におちいるわけである。

またジイドに言わせると、芝居的に演じられる感情と、実際に経験される感情とは、殆ど区別され得ないものだという。つまり母の傍に留まる行為によって母を第一に愛していると決定することと、母の為に留まるのだと思わせる芝居を演ずることとは、結局同じである。言いかえれば、なされる行為によって感情が構成されるのだ。故に、感情をあてにしてそれに導かれるというわけにも行かない。という意味は、自分の行動の充足理由となるべき真実な精神状態を、自己のうちに見出すことができぬから。それにまた、行為の理由となるべき観念を、一つの道徳から期待することも出来ないのだ。
と言えば、人は、しかしともかく助言を求めて先生の所ヘ行ったではないか、というかもしれめ,だが、助言を求めるとはどういうことであろう。たとえば、カトリック司祭の所に意見を聞きに行く者は、司祭の返答を大体承知して行くのだ。言いかえれば、忠告者をえらぶことは、すでに向らかかり合う(s`emgager)ことである。その証拠にはキリスト信者なら、司祭に聞けとすすめるにきまっている。では司祭に聞いてみてもよいが、司祭の中でもドイツと協力した方がよいと思っている者もいれば、どっちつかずの態度がよかろうと思う者もいれば、積極的に抵抗派に属している者もいるではないか。抵抗派の司祭か或いは協力派の司祭かをえらぶ時に、すでにこれから受けるべき忠告をも、同時にえらんだことになるではないか……。
こういうわけだから、私(サルトル)のところへ来たこの青年も、すでに私の答を承知していたのである。で、私の答える返答はただ一つだ。
「君が自由だ。えらベ」と。
即ち、自分で考え出せ。どうすればよいかを教えてくれる普遍的道徳なんかありはしない。この世界に何のしるしもありはしない。カトリックはハッキリしたしるしがあるという。そうとしでも、そのしるしの合む意義をえらぶのは自分自身ではないか。……
こうして、サルトルは、入間が完全に孤立に押しつめられる次第を述べ、その孤立は不安を生ぜしめ、不安は絶望に導くと結論するのである。

しかしながら、サルトル以前にも、人間は実存から出て来るさまざまの矛盾や悲痛に直面して来たのである。筆者自身も、この例にあると問じ悩みをもつ青年たちに、幾度出会ったかわからない。だが、サルトルのこの例の扱い方をみて感じさせられるのは、彼が青年の煩悶のみに重点をおいて、その対象である母親がこの青年と同じように精神と肉体を具えた人間であり、息子と同じく人間らしく人生に処する義務を有する者である事実を忘れているらしいことである。筆者の見た同様な実例においては、多くの場合、青年たちは小むずかしい先生のとこるへ相談に行くもよりも、内輪で静かに話し合うことによって、こうしたいわゆる悲劇に解決をつけたのである。
たとえば、母親は息子の話を聞いてからこう答える。
「お父さんは家にいないし、兄さんは戦死した。お前が行ってしまえば、お母さんは一人ぼっちになる。なるほど国家につくすことも大切だろうが、私たちはもう、一人の息子という大きな犠牲を国家に捧げて、納めるベき分を果したとおもう。法律からみても、国家は一家の支柱たる者にが兵役を免除しているではないか。お母さんを見捨てないでおくれ」
はっきりした母の理屈と要求に従って、息子は
「ではそうしましょう」
ど態度をきめる。あるいはまた、熱烈な愛国心に燃える母ならば、こういうかもしれない。
「お母さんのことを考えてくれるのは有難いが、私のほうはどうにかなるから、あとの事は考えずに、自由軍に参加して、お国のために働き、兄さんの仇をうっておくれ。つまりは祖国が勝てば、私たちも幸福になるのだから」
そう鼓舞されるなら、息子は勇んで家をあとにすればよい。
サルトルが何と考えようとも、われわれの判断に価値を与える幾つかの自然法的原則の存在を否むわけには行かない。人は利益を考慮する権利を有するとともに、公益をも考える義務がある。どちらも正当な考慮であるが、時に公益の為に私益を犠牲とするべく要求されることがある。一方、国家は人間のために出来たものであって、人間は国家のために出来ているのではない。社会生活の目的は人間の向上発展にある。これも健全な考え方である。かくて人間はしばしば義務と感情との間に板挟みとなるのである。
ともあれ、人間を発展向上せしめるのは、常に、利己心に打ち克つことによって獲られる精神の勝利である。これは人間性にふかく根ざした常識に基く考えであって、こうした考え方は、世の中を住みよい所とするために絶対に必要である。サルトル的見方によると、一つの体系に基いた人生観を有する者の意見は、聞かぬ前からわかりきっている、ということであるが、こうした常調的考え方は、べつに特に西洋的でも東洋的でもない、キリスト教的でも仏教的でもない、普遍的な意見である。キりスト教的返答は限られたせまい見解のように言うが、こういう実際的選択にあたって、人間が全き自由であると返答するサルトルの見方のほうが、せまく閉ざされたもので、常識に訴えるわれわれの行き方のほうが開かれたものであるような気がする。
サルトルに言わせると、人間の善良さや社会全体の益に対する関心に信頼をおいて、他人をあてにする、ということは出来かねる、という。何となれば、人間は自由であるから、われわれが安心してあてに出来る人間はどこにもあり得ないのだそうである。
果してそうであろうか。人間の定義は、個人的或は集団的生活の偶有性にかかっているのではない。もちろん時代によって、または文化の状態、精神的進歩の度合に従って、その時々の人問は、理想に近づいたりあるいは遠ざかったりする。しかし人間は社会的動物である故に、出来るだけ助け合うようにする筈であるというのは、人間性そのものの考察から導かれる結論であると同時に、常識のわれわれに教えるところである。道に迷った人が「一寸お伺いしますが」とたずねれば、相手が道を知っている通行人なち、教えるのが当然である。
もっとも、そういえば、時代によって違いがあるのはたしかである。筆者も十年前までは、世の中に道をきくことほどらくな話はないと思っていた。ところが戦争後の日本は、デモクラシイにおいて進歩したかもしれぬが、共同生活を容易ならしめる親切の点では退歩したような気がするのである。私はこのごろ道を聞くまえに、相手の顔をじろじろ眺める妙な癖がついた。この人なら大丈夫教えてくれそうだとよく見きわめてから、とりかかるのである。なぜなら、返事をしてくれぬどころか、ツンと横を向いて行ってしまう人間が、ふえつつあるからである。或いは私のめぐりあわせが悪くて、ちょうど自分の純粋自由を味いつつ散歩している存在主義者にばかり行きあたるのかもしれぬが。
なるほど、答えようと答えまいと自由である。人間は自己のなすところ以外の何ものでもない、と彼らは言う。しかし、各人が自由であるが故に、行動に先立って何も予想できないならば、われわれの社会生活は実に複雑なものとなるであろう。今に、省線のプラットホームで電車を待ちながら、運転手が実存主義者であるかどうかを、つまり、この駅で電車をとめてくれる気になるかどうかを、ハラハラしながら考えるような時代に、ならねばよいが。……

結局、明らかにしておきたいのは、あらゆる価値判断は、本質に関する判断である、という事実である。一つの行為がひとりの人間の有為であるからといって、それが必ずしも人間的な行為であるとは限らない。人間のおかすものである犯罪は、非人間的である。非人間的であるという判断は、この世界に個人を超越する人間という理想があることを前提とするものである。この意味において、人間そのものは、歴史を超越する実在である。この超越性は、精神を具えた存在の最もすばらしい特徴といわねばならぬ。
要するに、どのヒューマニズムにも人間性という支柱があり、その人間らしさに意義を与えるのは精神の働きである、という考えが土台となっているのである。
現代思想は混乱状態にある、とよく言われるが、それにしても、べつに悲観すべき理由はない、と私は思う。なぜなら、それぞれの我慾の生ぜしめた困離を経て、多くの者は、まじめに反省するに至るからである。私の知る限りでも、懐疑論者と自称しながらも自己の行動の大部分が懐疑に基づいていないことに気づいた者もいるし、唯物論者と称しながら、精神主義的な理想を多く抱いている自分に気がついた者もある。そうかと思えばまた、主観主義に依って立ちながら、目の前のビフテキについて、露骨な客翻主義者と全く同じように細かい吟味をして憚からぬ者もある。
たしかに混乱といえば混乱であるけれども、こういう渦巻から、又すぐれた進歩を促する思想が生じてくるであろう。
われわれは現在歴史の大いなる曲り角に立っている。かかる世紀の人間として生れたことに、張り合いを感じてよいと思うのである。

今や唯物論と精神主義とが、真向から相対峠している。勝利を占めるのは、実際により大きい包容力を示すものであるう。

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